◆◇◆ 魂の作用 その一例 ◆◇◆
先に言っておきます。
ここでの話は、はっきり言ってとてつもなく非科学的です。オカルトの部類です。
それでもOKという方は、どうぞ読んでやってください。

セラピストさんの勘

セラピストさんから見た私というのは、心に何か大きな問題があるようには思えない感じだと言われました。
もちろん、私自身も大きな心の問題があるつもりではなかったのです。ただ、もともとバランスの悪い自律神経のおかげで、どんどん【くるくる】になってしまったので、そこから抜け出したいということですから、セラピストさんからすれば、他の重篤なクライアントさんたちと比べたら私などたいしたことないように見えるのでしょう。
しかし、私が「これは遺伝もあると思うんです。母親も祖母も曾祖父も、このような体質だったので。」と話したところ、セラピストさんが笑顔から少し真剣な顔になりました。
そして、進言してくれたのです。「代々、遺伝的にこうだから・・・、という病気の中には、家系的な問題がある場合も考えられるんです。」

様々なクライアントさんに対して催眠療法を行っていても、どうしても良くならない人もいるのだそうです。そういう場合は、自分の心の問題だけではない場合がほとんどなのだそうです。
もっと簡単な言い方をすれば、何かが憑いてるということのようです。
普段から、このようなオカルトの世界と縁の無い人がこのようなことを言われると、拒否反応を示したりすることも多いと思います。しかし、幸いにも私の家族には普通の人には見えないモノを見たり感じたりする人が2人ほどいるため、私は霊の存在を現実のものとして認識する環境で育ちました。
ですから、「え?あたしにも?」とびっくりしたくらいで、拒否反応は全然ありませんでした。

そんな訳で、それがビンゴかハズレかは分かりませんが、セラピストさんの勘がそう言うのですから、とにかく紹介してもらった霊視のできる先生のところを尋ねてみようと思いました。
(セラピストさんの話だと、単なる霊視というより、その人の心の真ん中を見抜いて話しをしてくださる先生ということなので、ハズレだったとしても、得るものはあるだろうと思ったので、旦那さんと一緒に尋ねてみることにしました。)


私の知らない御先祖様

それは小さな喫茶店の奥の一角でした。そこで霊視をされてる先生の第一印象は「この人、半分この世で半分あっちの世界で生きてる感じ。」でした。
先生をセラピストさんから紹介されたこと、セラピストさんのところへは自律神経失調症をなんとかしたいために行ったことなどを簡単に説明すると、先生は「うんうん。」と肯き、そして、じーっと私(というか私の周り全部?)を見つめました。

結果はビンゴ!でした。

祖父母の代までの家系図を書き、それを元に「あなたの知らない御先祖様なんだけどね・・・。」と、先生が私のところにいる霊について説明をしてくれました。
話しを聞いていて、「そうなんですか・・・。」とビックリしていると、急に涙が出て来て止らなくなりました。
「あれ?あれ?あたし、悲しくともなんともないんですが(びっくりはしてるけど)、涙が止らないんですー。あれ??」と慌てていると、先生は、「それは、霊がそうさせてるんだよ。」と教えてくれました。
霊感の強い家族から、同じような体験談を聞いてはいましたが、自分にそれが起こるとは思いもしてなかったので、加えてビックリしてしまいました。

先生は、私の性格のことや、なぜ私が旦那さんを選んだか・・・などについても話してくれました。自覚していても、あまり見ないようにしていた部分や、「そうです。その通りです。」といった部分をピンポイントで言い当てられるで、「うわー。」と思いました。(なんだか恥ずかしいような気分でした。)
それらも、私のところにいる御先祖様の霊の影響だということでした。そして先生は「それらの影響がない本当のあなたの性格というのは、ノーマルな性格ですよ。」と言われました。
(ノーマルと言われて、とてもホッとしてしまいました。)


私のところにいる御先祖様の供養については、あるお寺を紹介してもらいました。
「楽になるよ。」と、先生に言われて、自分のためにも、御先祖様のためにも早くお寺に行かなくちゃ、と思いました。
先生は、「様子を見て、また一ヶ月くらいしたら来るといいよ。経過も見せて欲しいし、旦那さんのこともあるからね。」と言われました。・・・そうなんです。旦那さんにも何かあるらしいのです。(でも、私のほどキツくないらしくて、今度でいいよ、と言われたんです。これまたビックリ。)


豪快な電脳御住職

こじんまりしたお寺でした。
しかし、ご住職は豪快な方でした。こちらとしては、かなり緊張してるのですが、そんなことお構いなしです。その勢いに圧倒されっぱなしでした。
2時間にもわたって、いろんなお話を聞きましたが、お話を聞いてると、とても痛い部分をつつかれているような気分になりました。

改めて感じたのは、「ああ、あたしって、なんだかエネルギーがダダ漏れになってる感じ。」という感覚でした。
特定の宗教を信仰してるわけではありませんが、子供の頃からの環境のせいか、神さまとか、仏さまとか、そういう存在は居るんだろうな、と漠然と信じてました。
そして、この世はそういった超越的な存在の愛情が光のように降り注いでいるけれど、それを人間が気づかないで、目を開けてないから、真実が見えないんだろうな、と思ってました。

けれども、そう思っていても、心の奥のちゃんとした所まで、しっくりと降りてきていないような感じを、中学生の頃から感じているのも確かでした。
頭で「そうなんだろうな。」と思うのと、心でしっかり感じるのとは、別ものなんでしょう。
そんな状態なので、「私のどこかの栓が開いてて、エネルギーがダタ漏れみたい。」という感覚を、いつもどこかで感じていたんだろうな、と思いました。
【何か】に祈っても、その祈りが【どこか】に届かないで、途中で消えてしまうような感覚だったのです。
(実は、【どこか】にいる【何か】への扉が開いて、『祈るって、こういうことなんだ。』という実感を得た経験が一度だけあるんです。私。でもそれは、たまたま扉がちょろんと開いただけなので、その後どうやっても扉は開かないのです。だから余計に届かない、とかダダ漏れ、という感覚が拭えないのです。)

ご住職の話を聞いていたら、そういう自分の痛い部分を突つかれているような気がして、またまたボロボロと泣いてしまいました。


パソコンを使って、唱えるお経(?)を作成し、プリントアウトするご住職。最近のお寺は、電脳化してるのねぇぇぇ、と感心しました。
最後に、お経をあげてもらうと、なんだかちょっとホッとしたような気持ちになったのが、すこし不思議でした。


え?あたしの左手から??

問題のある御先祖様を供養させていただいて、すぐに変化が出たのは、心でした。
どうなったかと言いますと・・・・グレちゃったんです。私・・・。
それまでも、仕事のことや、いろんなことで、「もーーー。」と思うことはありましたが、今までよりも些細なことで、今までよりもはるかに「ぷんすかぷんぷん。」と怒るようになってしまったのです。

そのうち、グレてたのも収束して行きましたが、それでも以前よりは喜怒哀楽の感情が激しくなったような感じは残りました。(それを表に出すか出さないかは別で。)
体の方は、相変わらずで、良かったり悪かったりの繰り返しで、そんなに大きな変化はありませんでした。


そして、1ヶ月半ほどしてから、また先生の所にお邪魔してきました。
まず、先生は家系図と私を見て、「ああ、概ね(の霊)は良くなってるね。」と笑顔で言われました。
・・・しかし。
概ね良くなり、キツい霊の供養をしたおかげで、もっと細部まで見通しが利くようになった、と先生はおっしゃたのです。そのおかげで、問題が出るわ出るわ・・・・懸案事項は9件にもなりました。
(不思議なもので、自分に影響がある/ないは別にして、ご先祖様が浮かばれてないと知ると、なんとかしてあげなきゃ、と思うもんなんですね。)

9件もあると、さすがに私も覚えられないので、先生が1つずつ紙に書き出してくれました。
そして、あるご先祖様の水子霊について「〜〜の供養祈願」と先生が書いた途端、「うおおお!」と先生が大声を出されたので、私も旦那さんもビックリしてしまいました。
すると先生が「今な、こうやって書き終えた途端、あなたの左手から、ぬるんと霊が出てったんだよ。すごいなぁー。いや〜、すごかった・・・。」と感心しきり、という感じで話されしまた。
・・・ぬるんと?あたしの左手から??ご先祖さまの水子ちゃんが出たの??????
私にはなんの感触もなく、何も見ることはできませんでしたが、先生によると、忘れられてた水子の霊が供養してもらえると知り、ホッとして私から離れたんだそうです。さすがの先生もこんなにダイナミックなのは珍しいのか、「すごい、すごい。」を連発されてました。


その他にも、母方の祖父が、父親との葛藤を残したまま早死にしたため、その怒りの気持ちが念となって私の周りに取り巻いていると言われたのも、ビックリしました。
その怒りの念のせいで、私の神経はそれに対抗しようとして常に緊張しているのだと言われました。
心療内科でも私の体は常に緊張しすぎている、と言われていました。ストレスを溜めないように、と言われてましたが、「そんなもん、どうしたらええの?」と内心では思ってました。
なので、お話を聞いて、ここに原因の1つがあったのか、という気分になりました。

他にも、胸が痛むような話もありましたが、とにかく、またお寺に行って、ご供養させてもらえば、みんなハッピーになるわ、と思い、すぐにお寺に連絡し、予約させていただきました。
先生曰く、私の魂(私ではない。あくまで私の魂)は、頼られやすいんだそうです。「あたしは何もできんけど、ご先祖様が頼りたいって思われるなら、頼っていいよ。」と言ってしまう魂なんだそうです。
(でも、やっぱり私には何もできないから、どんどん私の体がしんどくなるばかりだった・・・・のだそうです。ありゃりゃー。私の魂ってお人好しだったんですね。)
ということは、やっぱりご先祖様が供養されたら、私の魂もハッピーなので、いいことばっかりだ〜、と思いました。


不思議なんですが、この翌日の朝から、おしっこが昔のようによく出るようになりました。
この3年ほど、朝のおしっこの量が極端に減ってたのです。これは腎臓の働きが低下してるためだと鍼灸師の先生に言われていました。(鍼をしてもらうと、2日ほどは量が増えるんですが、また少なくなってしまっていました。)
そして、3日もすると、顎のあたりがスッキリしてきたのに気づきました。余分なむくみが取れてきたようでした。腎臓が昔みたいに元気になったの?と嬉しくなりました。


喜んで楽しみ、喜んで苦しむ

9件も浄霊をしてもらわないといけないので、ちょっと申し訳ないなぁ、と思ったのですが、さすが百戦錬磨(?)のご住職。「これくらい、大丈夫。」とおっしゃいました。(ここんとこ、調子が良いんだそうです。)

実際にお経を唱えていただいて、ご先祖様を供養していただいてる時間は、そんなに長くありません。
しかし、お話が長いのです。気がつくと何時間も経ってる〜〜、という感じです。(電脳ご住職なので、旦那さんとバソコンの話をする時間が半分ですけど。)
そのお話というのは、系統だったお話ではありません。私たちの反応を見て、ご住職が次々といろんなお話をされるので、こちらも次々といろんな想いが心に浮かんできます。
決して退屈な坊主の説教ではないのです。それどころか、それまでの自分の生き方を見抜かれてるような気がしてくるので、気が抜けません。


この時のお話で、一番心に残ったのは、「喜んで楽しみ、喜んで苦しむ」という言葉でした。
「何もしないで、ボーーーっとしてる時に心の奥の方から喜びが涌いてくることがないか?それが、人間の本性なんだぞ。」と教えていただきました。
何もしてない時、何も考えてない時に、何とも言えず、喜びがほんのり涌いてくること・・・・確かにそんな感覚になることがあります。○○だから嬉しいのではなく、条件のない喜びが、微かにほんのりと感じられる時というのは、確かにあると思います。
ただ在ることが喜びである、というのが、本質なんだそうです。(仏教の教えでは、在ることは苦だと言いますが、きっとそれは、ご住職が言われることの裏側なんだろうな、と、なんとなく思いました。決して矛盾してるとは思わなかったです。)
だから、「喜んで楽しみ、喜んで苦しみなさい。」と言われました。楽も苦も、喜んで受け入れなさい、ということなんでしょう。
しかし、実際に体が辛い時に、それを喜ぶことができない未熟な私は、ご住職に「しんどい時は、そんな気持ちになれないです。」と正直に言いました。
すると、「世の中は、必ず反する2つのものがある。楽の影には苦があって、苦の影には楽が潜んでるんだよ。」と教えてくださいました。(で、実際にどうやって乗り越えたらいいか、のアドバイスもしていただきました。)
背反する2つのもの。
だから、神仏の前で右手と左手を真ん中で合わせるというのは、2つのものが真ん中で融合して「無」になる、ということなんだそうです。
「私、昔から、お寺やお墓や、神さまの前で手を合わせると、頭が真っ白になっちゃうんです。それって、良くないことかと思ってたんですが、良いことなんですね?」と尋ねると、ご住職は笑って「それでいいんだよ。」とおっしゃいました。

無があり、そこに微細なゆらぎが生まれたことで、この宇宙は出来上がったのではないか、と最新の宇宙論では言われています。
無から、まず光が生まれ、やがて、その密度の非常に濃い光の海から物質と反物質が生まれました。そして宇宙が広がっていく過程で、物質と反物質がお互いに出会い、膨大なエネルギーを解放しながら再び光になったはずです。(その残りカスが私たち)
ご住職の話を聞いていて、そんな宇宙開闢のイメージが心に浮かんできました。神仏の前で右手と左手を真ん中で合わせた時、頭の中が真っ白になるのは、そこに光が生まれているからなのね、と思いました。



霊が憑いているとか、浄霊をしてもらうとか、そんな非科学的なことは信じられないと言う人も多いでしょう。それに、「それが本当に正しいのかどうかが分からないから、信じられない。」と言う人もいると思います。
けれども、科学や自分の目がどれだけのものを見ることができると言うのでしょう?
私は科学が大好きです。けれども、現代科学で分かることや、自分の目で分かることなんて、世界のほんの一部に過ぎないと思うのです。私たちは、本当にまだ何も知らないのに。

ニセモノの宗教家がテロリストになることなんて、イヤになるほど歴史が語ってくれてます。ニセモノの霊媒師が霊感商法で金儲けをしてるという話も後から後から出てきます。
だから、その類の話には耳を貸さないという人もいると思います。しかし本物の話さえも聞かずに耳を塞いでしまったら、精神の豊饒さは、どこから得ればいいのでしょう?
本物とニセモノを嗅ぎ分けるのは直観しかないと思います。そして、その直観とは今まで生きてきた人生全てでもって瞬時に観るということだと思うので、磨くのにもすごい気合や覚悟が必要だと思います。(でもって、きっと自力じゃ無理。)

私は、まだまだ何も知らないし、何も分かっていません。私の直観はまだまだ未熟です。しかし、それを知ったということが大きいことだと思いました。(ああ、ほんとに有り難い。)



元の世界に戻りましょうか。