その2 ●みんな何かを抱えてる●

旦那さんがお遍路に行く、と言い出したのは買ったカーナビに四国88ヶ所巡礼コースが標準装備されているのを見つけたからです。
私はただ旦那さんについて行きたくなっただけです。
オカンはさておき、お義母さんなんてお寺参りとはあまり縁の無い生活をしてましたが、息子夫婦に誘われて、メル友のオカンと一緒に旅に出てみようと思っただけです。
軽いです。私たちのお遍路はかなり軽いもんだと、しっかり自覚してました。


春休みということもあり、若い学生お遍路さんを多く見かけました。歩きお遍路や自転車お遍路の学生さんは、見ていても清々しいです。
もしかしたら、何かに悩んでいるのかもしれません。若い頃特有の人生への疑問に対する答えを探してのお遍路かもしれません。ただ純粋に旅をしてるのかもしれません。なんにせよ、清々しいのです。
「う〜〜ん。 若いっていいなぁ。若い時にお遍路しちゃうなんて、素敵だわ〜。」と、ニヤニヤしながら眺めてしまいました。


観光バスでお遍路してる人たちも多かったです。おじさんおばさんの集団が賑やかしくお遍路していました。
確かにお手軽で、おじさんおばさんには良いかもね、と思いましたが、なにせ集団なので、納経所で先を越されるとたまったもんじゃありませんでした。ちょっと迷惑ですね。
どやどや〜とやってきて、ごごごごーーっと般若心経をお唱えして、だだだ〜っと帰って行くので、情緒とは縁遠くなるのも仕方ないんでしょう。(いや、自分たちも似たようなもんだな…。)


かと思えば。
すでに90回もぐるぐる巡礼してるご夫婦にも会いました。
ずっと車の中で生活していて、1年のうちで自分の家にいるのは数日とのこと。
お姑さんの世話をずーっとしてきたお嫁さんは、お姑さんが亡くなったら絶対に100回お遍路するんだ、と決めていたんだそうです。
納経帳を見せていただきましたが、朱印で真っ赤っかでした。
夫婦2人でずーっとお遍路してる今が、きっと奥さんにとって一番幸せな時なんだろうなぁ、と思いました。


お遍路中頃からは、『山田様』ご夫婦を見かけることが多くなりました。
タクシーでお遍路してみえたご夫婦です。タクシーに『山田様』と書かれてあったので、私たちはそのご夫婦を見かけるたびに「お、また山田様と一緒だ。」と言うようになりました。
山田様の旦那さんはいつ見てもムスっとした顔をしてました。
「山田様、きっと旦那さんは頑固者だわ。」
「うん。絶対頑固やね。奥さん、そんな頑固者にずーっと我慢してついてきたんだに。」
「あー、でもきっと奥さんがお遍路に行こうって言い出したんやと思うわー。一人息子を事故か病気で亡くしたんやわ〜。かわいそうにー。」
「最初はそんなもんに行くか、と言ってた旦那さんを無理矢理連れてきたんやね。」
「あーあ。かわいそうに…。」
と、女3人で勝手に山田様のストーリーを作って、奥さんに同情しちゃってました。

そんな山田様ですが、お遍路終盤になってくると、旦那さんの顔がどんどん柔らかくなっていったのです。
八栗寺のケーブルカーでは、すれ違う時に私たちに手をふってくれたのです。
「あれだよ。やっぱり子供たちのお接待で、山田樣の心が和んできたんやよー。」
「ああー、それもありそうやねぇ〜。あの頃から顔つき変わってきたもんねー。山田様の旦那さん。」
「山田様、イヤがってたけどお遍路に来て良かったねぇ〜。」
と、女3人、どんどん自分たちがでっち上げたストーリーを磐石なモノにしていきました。
結願のお寺で、お義母さんが2言3言、山田様と話しただけで、他に会話なんてしてないのにね。
でも、山田様の旦那さんの顔がどんどん柔らかくなっていったのは本当の話です。


愛媛では、『浜松の人』にも大注目でした。
浜松ナンバーの車で、一人でお遍路してみえた中年の男性をよく見かけたのです。
浜松の人は納経用の掛け軸を背負い、お遍路していました。
その姿がなんとも哀愁深くて、女3人、またまた勝手にストーリーをでっち上げ始めました。
「奥さん、亡くなったんだねぇ…。」
「んー。乳ガンか何かやったんやろうねぇ…。」
「奥さんが生きてる時は、仕事ばっかりやったんやろうねぇ。それを後悔してみえるんかなぁー。」
「でも、きっと奥さんが生きてる頃に一緒にお遍路に来たことがあるんやわぁ。納経してみえへんもん。」
浜松の人は納経用の掛け軸を背負ってたのですが、納経所で納経or朱印はしてもらってないのです。(うちら、よーく見てるでしょ?)
いつもは「何を勝手に人の人生作り上げてるんだか。」と苦笑いしてた旦那さんも、
「やっぱり奥さん、亡くなったんかなぁー…。」
と、哀愁という言葉しか見つからない浜松の人の背中を見つめてポツリと言いました。


山田様が一人息子を亡くされたのかどうかは分かりません。浜松の人が奥さんを乳ガンで亡くされたのかどうかも分かりません。(多分、違う。)
リストラされて、どうしていいか分からずにお遍路に出る中年男性が増えていると聞いてましたが、ほんとにそんな感じの中年男性の歩きお遍路もたくさん見かけました。
それだって、本当のところは分かりません。
でも、みんな何かを抱えてるんだろうな、ということだけは見ていてすぐに分かりました。
集団の慌ただしい動きに紛れて分からないだけで、観光バスでお遍路してみえる人たちの中にも、何かを抱えてる人はたくさんいたと思います。

自分が幸せだと感じる気持が無い限り、どんな恵まれた状況にあっても幸せにはなれないと思います。
それは、どんな状況であろうが、自分が幸せだと感じることができれば、それで幸せだということです。
何かを抱えた人は、どうすることもできない喪失感を持っているのかもしれないけれど、それでも生きて幸せだと感じることができるようになるといいなぁ、と思いました。
お大師さまが、そんな気持になるように導いてくださるといいなぁ、と思いつつ、お大師さまのご真言をお唱えしました。


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