神様は、無限です。無限なる光、無限なる愛、無限なる叡知。
でも、無限が横に一歩動いても前に一歩動いても、無限は無限なので、何も変わりません。
ですから、神様は「世界」を創ろうとなさいました。有限の「世界」をです。
ご自分の光を幾つかに分けて、「世界」を創り始められました。
神界、霊界、幽界…そして、我々の住む物質界をお創りになりました。
ならば、我々という存在は、一体何なのでしょう?
それは、私たちは神様から分かれ出た光の一部であり、「世界」創りの人足なのです。
神様の分霊である我々は、肉体にいる間にしかできない「お仕事」をしなくてはならないのです。
神様がお創りになろうとしている「世界」を実現するために、一人一人が「お仕事」をしなければならないのです。
それが「天命」です。
でも、私達は神様を忘れ、一番波動の低い「肉体」という殻に閉じ籠もり、自ら課した仕事も忘れ果て、神様から離れたことによる『不安と恐怖』から、人から奪う生き方を続けてきました。
たくさんの悪業を前世から重ねてしまったので、因果応報の理の中で苦しんでいるのです。
自ら蒔いた種は自ら刈り取らなくてはならないからです。それが前世の種だとしても。
神様は無限なる愛でありますが、『厳然とした理』でもあります。
情に流されて理を曲げるなんてことはなさいません。愛は情ではないからです。
ですから、我々は自分で作った因の果は受け取らなければならないのです。
自分で選択した想いや行動の結果なのですから。
神様は我々に「自由意志」を与えてくださいました。
そのために、我々は迷い、間違い、遠回りをしてしまっています。
しかし、神様の無限なる叡知は、「自由意志」を与えることを望まれたのです。
効率的に「世界」を創造しようなどと、そんなふうに神様が考えていらっしゃったら、決して我々に「自由意思」など与えられなかったことでしょう。
つまり、「自ら想う」ことがいかに大きな力であるか、ということの現れなのです。
「自ら想う」こと、「自由意思」が「世界を創る」からです。
我々は無限なる神様の分霊ですから、我々にも神様と同じ無限なる創造性が備わっており、我々の想念は「現実を創り出す」力そのものなのです。
そして、「自由意志」があるということは、「個である」ということです。
それぞれ異なった波動(想い)の「個」が創り出す現実が、全て美しく調和するという「世界」。
それを生み出すために、我々一人一人は「真のお仕事」をしなければならないのです。
ただ、我々は迷子になってしまい、「自ら想う」力で悲しむべき現実を創り出してしまっています。
積み重ねてしまった業に足をとられてしまい、どんどん深い迷いの中に入ってしまうのです。
けれど、神様はいつもいつも私達に光を与え続けてくれています。
勝手に目を閉じて闇を作っているのは自分自身なのですから、私達は神様を思い出せば良いだけなのです。
業が深いため、すぐには何も変わっていかないかもしれないけれど、神様を想い祈り続けていれば必ずアカ(業)が少しずつ落ちて「本当の自分」が、光輝く「本当の自分」が顕れてくるのです。
その時、私達は『それぞれが創り出す現実が美しく調和する世界』を生み出す人足になれるはずです。